フィリピンへ
<沖縄からはじまったフィリピン>
フィリピンへの道は沖縄から始まった。その夜のことは、45年ほど経った今でもはっきりと憶えている。
1968年夏、「沖縄愛楽園ボランティア・グループ」を立ち上げた私、第1回目こそ男子が私の他に2名いたが、翌年からは女性ばかり、男子は私一人ということがしばしばだった。そんな時の春、「健康者は患者地帯に寝泊りしてはならない」というライ予防法を盾に、私たちは療養所内に寝泊りすることが許されず、当時無牧(牧師のいない状態)だった集落の「屋我地聖ルカ教会」のキャンプ場で寝泊りしていた。女子が離れのキャンプ場、男子一人の私は母屋の牧師館だった。そんなある夜、深夜0時ごろ「キャー」という悲鳴が女性軍の方からあがった。何事かとすっ飛んでいった私、そこには集落の青年4人ほどがいた。酒をおびていた。「俺達は本土の女の子達と話したかっただけだ」と一人がいった。だいぶボルテージのあがっていた私、「それならば常識的な時間に来るように、そして酒などのまないで」といった。酔っていた一人が「お前は沖縄者をバカにしている」とからんできた。一触即発状態だった。なぐりあいとなればモヤシのような大和人、筋骨隆々の沖縄人に勝てるはずがない。それも多勢に無勢、どうみても袋だたきが関の山だった。とっさにキャンプ場の暖炉の側にある鉄棒が目に入った。いざとなればそれを武器に一人でも二人でもダメージを与え、玉砕するつもりだった。そんな時、一人の青年が「松田」と自分の名を口にした。その日、集落に葬式の案内がはり出されていた。松田○○さんの葬式だった。私は思わずその青年に「では今日葬式案内の出ていた松田さんの門柱(もんちゅう、親戚の意)か」といった。そうしたら彼、「門柱とういう言葉を知っているのか」とびっくりした様子。そのころはたいした沖縄への知識を持ち合わせていなかった私だったが大きく出た。「沖縄のことを少しかじればそれぐらいのこと知っているのは当たり前だろう」。「お前はそんなに沖縄のことを知っているのか。そんなに幾度も訪ねて来ているのか。それも俺達だって見むきもしない愛楽園へ」、ということで険悪ムードはフッ飛び、一転して友好ムードとなり、彼らは非をわびて明日出直すといって帰っていった。しかし、翌日再び来ることはなかった。
乱闘などにならず安堵はしたものの、この出来事は私には大きなショックだった。沖縄と本土との間に横たわるぬぐいきれないもの、沖縄人の大和人へのどうしようもない感情を見せつけられたからである。
沖縄と本土との間に横たわる壁、同じ日本の中でこうならば、かつて戦場となったアジア近隣諸国の人々の日本人への感情はどのようなものなのだろうか。その一つの出来事を通して、私の気持ちは少しずつアジアの周辺諸国へと向けられていった。そして、不思議な縁でフィリピンと出会うこととなった。
1978年、32歳になった私は町の牧師のタマゴから、大学の礼拝堂付牧師(チャプレン)として、立教大学へ赴任することになった。1975年、神学校を卒業するなり、すぐに東京下町の神田キリスト教会で牧師のタマゴとしてスタートした。そして教会勤務の側(かたわら)、もう少し学問を積みなさいということで、我が身の能力をもかえりみず、立教の大学院で学ぶこととなった。
元来、行動的で、からだ全体で感じ生きることを大事にしていた私、大学院という場での学びをどのようにして行けばよいのかわからなかった。論文も書けずに大学院生活3年間、入学時に子供1人だったのが、その3年間に新たに3人の子供が産まれていた。大学院は4年間まで在籍できるので、もう1年頑張って論文を書きあげようと思った。その事を主任教授に伝えたら次のような言葉が返ってきた。「大郷君、もういいヨ。また子供が1人増えるとこまるから…」、誰がこまるのかはよくわからないが、この一言は決定的だった。1978年3月31日付で退学届を出し、翌日付けで私は大学チャプレンの辞令をもらうという、あまり他の人がなしえないようなことを経験することになった。
一番若い私は、BSA16支部という男子学生ばかりの土方ボランティア専門に活動する部の責任者にあてられた。元気ありあまる彼ら、海外でのワーク・キャンプをやりたいと訴えてきた。不思議な力に導かれて赴任した翌年、不可能と思われていた海外ワーク・キャンプが実現の運びとなった。そして、彼らとのフィリピンでの学びを一時のものとして終るのではなく、多くの学生と共有したく、私は大学プログラムとして継続して行くことを提案し、当時の大学総長尾形典男先生の特別の計らいで、大学プログラムとなった。「フィリピン・ヒューマンリレーションズ・キャンプ」の始まりであった。途中、ピナツボ火山の大爆発などで中止せざるを得ないこともあったが、代が替わりつつも受けつがれ、20年近く続くプログラムとなった。
その時出会ったメレシオ・ヤマシタさんのことを書こうと思う。彼とその家族の中に、フィリピンと日本の近代史が凝縮されていた。しばらくは、その当時連載させてもらった聖公会新聞の記事から転載させていただきたい。
<メレシオ・ヤマシタさんの家族に見る日比近代史>
聖公会新聞 1984年10月20日より転載
フィリピン旅行記 <1> 司祭 大郷 博
はじめに
私はこの「フィリピン旅行記」を沖縄の地で記している。立教大学から与えられた三ヶ月の研修休暇、私はこの期間を沖縄で過すことに決めた。それは、一つにはやがて終わりゆくハンセン病を病んだ人々の記録を残すことと共に、私自身に多くの学びと気づきを与えてくれた沖縄の地にあって、今一度自己をみつめなおしてみたかったからである。
フィリピンの国民的英雄ホセ・リサールの著に、『ノリメ・タンゲレ』という本がある。この言葉は「私に触れるな」という意味で、復活のイエスに触れようとしたマリヤに、「私はまだ父のみもとに上っていないのだから、私にさわってはいけない」という、ヨハネ伝20章17節から引用された言葉である。リサールは、四百年に亘るスペイン支配に抵抗し、祖国の独立を求めて闘い、処刑されていった。「この美しい私たちの祖国フィリピンを、植民地支配というスペインの汚れた手でもうこれ以上穢してはならない」という彼の思いを、この『ノリメ・タンゲレ』という言葉にこめたものと私には思われる。
やがては処刑される運命にあることを知っていた彼は、この本の中で国民にこのように語っています。「私は我が祖国の上に輝きいずる暁を見ずに死ぬ。暁を見ることの出来る諸君よ、君たちはそれを喜び迎えよ。しかし、闇の間に斃れた人々のことを決して忘れるな!」。
沖縄の地で思ったこと
1968年、私は祖国復帰運動に揺れ動く沖縄を訪ねた。高度経済成長期にあった本土と沖縄はあまりもの隔たりだった。少し沖縄に関心を持てば、歴史を通し沖縄は本土繁栄の足踏台となってきたことを、誰しもが認めることとなる。しかし、人は繁栄の中にある時、私たちにこの豊かさをもたらすために、闇の間に斃れていった人々のことを心に留めることは少ないようだ。それは人間性の一つの危機だと思う。
私の尊敬する灰谷健次郎は、沖縄を主題とした『太陽の子』でこのように語っています。「一つの”生”のことを考える日本人は極端に少なくなりました。今ある”生”がどれほど沢山の”死”や”悲しみ”の果てにあるかということを教える教師も少なくなりました。それは日本全体の堕落です。日本という国の為に命を捨てていった数十万、数百万の人々は、どのような涙を流せばいいのでしょうか。死せる人々に応え得るような”生”が今の日本にないとしたならば、この日本という国はいったい何なのでしょう。…….ひとりの人間の死を個人的なものとしてかたずけてきた人々が生をうけている国、それが日本です。退廃のみなもとはそこにあります。そのことに目をそらしてはならないと思います」。
今ある命を考える
私たちキリスト者も、「主はいのちを与えませり、主は血潮を流しませり。その死によりてぞ、我は生きる。我、何をなして主にむくいし」とこのように、信仰を告白し、主の御業を讃えるのです。私は、私たちの今あるいのちを考える時、私たちのために苦しみ、死んだ主イエス・キリストをはじめとして、それに続く多くの人々の悲しみや苦しみ、そして死によって支えられているいのちであることを強く実感します。そしてそのことの実感故に、私のいのちは私個人のものであることを越えて、有機的ないのちのつながりの中に組込まれ、他者と共に生きる私の生へとつくり変えられてゆくのです。私は、今私たちが生をうけているこの時代のことを考えると、「私のいのちの有機性=死せる人々に応え得るような生」を主張して行くことの大切さを痛感するのです。大学で働くチャプレンとして、そのことを学生たちに問うと共に、一緒に考えてみたかったのです。
戦後生まれの私にとって、過ぎし大戦は遠い存在でしたが、沖縄との出会いを通して身近なものへとつくりかえられ、さらに戦場となった東南アジアの国々の人々との交わりを求めるようになった。戦争とはいえ多くの人々を殺し、生活を破壊していった者の子孫である戦後世代の我々が、どのようにして新しい関係をつくりあげることができるのかを模索したかった。
初めて訪れたフィリピン
1979年6月、フィリピン・キャンプ打合せの為、フィリピン聖公会北教区アベリオン主教(現総裁主教)を訪れた。その時の私の予備知識といえば、アベリオン主教の名前とその町名ボントック、そしてキャンプ予定地サガダの名前だけだった。これだけをたよりに彼地を訪ねたのだからそれは無謀な行為に近かった。
首都マニラからバギオまで飛行機、そこからバスで約10時間。険しい山道を走る豚やニワトリを積んだオンボロバス。イゴロット族の正装であるジーストリン(フンドシ)をつけた人々を見た時、タイム・トンネルをくぐったような気持だった。全てにおいて不安で一杯だった。こんな無鉄砲な私たちを迎えて一番びっくりしたのがアベリオン主教だった。「よくこんな所まできたね。まさかと思っていたよ。もうこれで心配することはない。君たちのキャンプは大丈夫だよ」。アベリオン主教のこの言葉をもって、私たちのこれまで6年に亘るフィリピン・キャンプがはじまったのであった。
聖公会新聞 1984年12月20日より転載
フィリピン旅行記 <2> 司祭 大郷 博
不安に包まれたキャンプの門出
1979年8月、立教大学チャペル団体BSA16支部によるフィリピン・キャンプが始まった。それは不安に包まれた船出であった。慣れぬ生活環境や食生活、学生たちはどこまで耐えることができるだろうか。根強いといわれている反日感情がいつ、どのようにして噴出してくるのか、私には全てが不安だった。
日本人よ 何しにきた!!
サガダの村はいつも静かだった。その静かさは私たちの不安を一層強くした。村人の私たちをみる目は決して温かいものではなかった。村を離れる前日、教会委員の一人が私に言った。「ある日突然アベリオン主教が、日本人キャンパーが来るから世話をたのむと言ってきた。過去のことを考えると難しい話。教会委員会は気乗り薄。村の長老会は厳しい態度。主教からの話でもあり断るわけにはいかず、我々数名の責任で返事した。実際あなたがたが来てどうなるのか、我々の方が心配だった。ても、こうして新しい歩みを持てたことは本当に嬉しいよ。」板挟みになっていた彼等の気持が痛いほど伝わってきた。
村にきて4日程経ったある日、広場で60歳ほどの老人に私はくってかかられた。「お前達日本人はこの村へ何をしにきたのか。お前たちのアーミーがここで何をしたのか知った上でのことなのか。あの山で○○が、あの谷で○○が殺られたのだ。」歯がぬけ、タバコのヤニで黄ばんだその老人の顔を私は忘れることはできません。
「ルソン島決戦」は戦死者の数においても、その悲惨さは太平洋戦史上最大級のものであったといわれる。1944年10月24日、連合艦隊はその総力をあげてレイテ島沖で米機動部隊に決戦を挑み大敗、連合艦隊は事実上壊滅した。マニラ周辺に布陣していた第14方面軍は、制空権を奪われ、補給路を断たれ、平地での会戦を断念して、自給体制をとれる山地で一兵でも多く米軍をひきつけ、日本本土への進攻を遅らせることを目的とし、北部山岳地帯バギオ周辺に陣を張った。
1945年1月9日アメリカ海兵隊のリンガエン湾上陸をもって戦いの火ぶたが切って落とされたルソン島決戦で、開戦と同時に、日本の将兵、民間人は、バギオ ― ボントック(フィリピン聖公会北教区所在地) ― バガパック ― アリタオを結ぶ四角形の峻険な山岳地帯に閉じこめられてしまったのである。戦終り、9月3日山下司令官は降伏文書に調印した。その間わずか8ヵ月の間に、60万余の日本人将兵、民間人がルソンの山の土と化した。米軍やフィリピン住民の数を合わせると100万人近い数になるといわれる。
とくに悲惨だった現地住民 ― 神島教授の証言 ―
どのような惨状がくりひろげられたのだろうか。1981年、私たちの比キャンプに参加され、実際にこの戦争に参加された立教大学名誉教授神島二郎先生の言葉を引用してみる。
「キアンガンから前線部隊に赴任する途中で、山奥へ退却していく人たちを交通哨で管理したことがある。その時には、道端で倒れてウジにたかられて、パンパンにはれ上って死んだ人たちを片端しから処理していく。そこでは部隊はもう全部自活です。ですから、畑や家があるとすぐ食糧を探すので畑は全部荒し切っている。そこへ後からきた邦人の女子供がまたあさって、わずかに残ったものを食う。草まで部隊が荒している。その後に来たのだから彼らはほとんど飢え死にしたわけです。そういう飢え死にした人たちの後始末をやった訳です。…山の中で邦人はたしかにひどい目にあった。軍人もひどい目にあった。だけど、一番ひどい目にあったのは現地の住民なんです。彼らは家は壊され、畑は荒され、顔をみせれば殺される。そういう不当な苦しみを受けたわけです。そういう苦しみを本当に日本で経験したのは沖縄の住民だけです。私はそういうことをじっくりと掘り起していたきたいのです。」(雑誌『立教』110号より)
わずか8ヵ月の戦闘で100万人近い人々が死んでいったルソン島決戦、そして日本人の多くは飢死であった。その手に銃をもった兵士が飢えるとどのようになるのかは、戦争を知らない私たちにも容易に想像はつく。私の胸倉をつかみながら激しく詰め寄った老人の怒りに私は言葉もなく彼の目を見ながら黙っていた。
聖公会新聞 1985年3月20日より転載
果樹園作りに協力
フィリピン旅行記 <3> 司祭 大郷 博
「財宝狩り」に精を出す
「村のモデル果樹園作りを」ということではじまった第一回目のキャンプ。毎日穴掘り作業が続いた。そんな私たちを村人はいつしか「トゥレジャー・ハンター」と呼んでいた。「財宝狩人」って一体どういう意味なのか、ポカンとしている私たちに彼らの一人が説明したくれた。終戦の時、時の司令官山下奉文がこのルソンの山のどこかに莫大な財宝を埋めたとのこと、その作業に従事させられた村民が虐殺されたとのこと、今もその所在を求めて必死になっている者がいる。(私も暗号らしき地図を見せられ、解読を求められたことが一度あった)戦争で散々悪いことをした日本人、戦後もその経済力を背景にフィリピンまで買春旅行をして歩く日本人が、こんな山奥まで利益にならないようなことのために来るはずがない。目的は山下将軍の財宝であるとのことだった。同行された74歳の植物学者竹下先生の存在が、一段と話に真実味を帯びさせることになった。
私の名前はメス豚です!!
しかし、辛いことばかりではなかった。いや楽しいことの方が多かった。私の名前が彼らの言葉、イゴロット語になっていたのには驚いた。当時サガダ村の聖マリア教会の主任司祭の名前はローマン氏、村人はローマンとオオゴはよいコンビといってよく笑った。どこがよいのか訳がわからない。行く先々で自己紹介するたびに村人は笑った。彼らは申し訳なさそうな顔をしてその理由を説明してくれた。イゴロット語で「オオゴ」はメス豚、「ローマン」は豚小屋とのこと、大きな郷という姓に誇りをもっていたのに・・・。しかしおかげ様で私の名前は村人に一度で覚えられることとなった。それにしてもメス豚とは・・・。
※今回追記
(後日談、その後数年して女房を連れていった。大郷育といったら村人大爆笑。お前達夫婦はどこまでうまくできているのだと。何とイクはシッポ、我が女房の名はメス豚のシッポだった。)
歌と踊りに酔いしれたひととき 感激のサガダ・ナイト
二週間余の滞在を終えて村を発つ直前、村人は私たちの歓迎と送別を兼ねての大夜会「サガダ・ナイト」を催してくれた。満天の星空のもと、ビロードのような深い闇に燃える篝火の炎は、この世のものとは思えないほど美しかった。静寂そのものの中で、民族衣装に身を正した村人が、勇敢な戦士の踊りや求愛の歌、踊りで私たちをもてなしてくれた。
宴半ばほどの時、赤黒白の原色を美しく織りあげたタピス(スカート)を身につけた婦人20数名が、私たちへの花むけとして歌を贈ってくれた。それは私たちの歓迎の歌であり、彼らの歴史でもあり、新しい関係にむけての和解の歌でもあった。真っ暗な夜空にすい込まれて行くような彼らの歌は、この世のものとは思えないほど素晴らしいものであった。イゴロット語で歌う彼らの歌を英語訳を見ながら聴き、いつしかその美しさに陶酔していく私たちだった。
一、 私たちは幸福です。
なぜなら あなた方は 私たちの村に やって来てくれたから
たとえ 遠く離れているにもかかわらず
それはとても嬉しいことです。
あなた方は 子供たちに 働くということを教えてくれました
何の報酬もないにもかかわらず
コーラス
その間は忘れましょう 過去の辛苦を! ここには私たちの協力者がいるからとっても楽しい思いです
二、 私たちは忘れられない
以前ここで亡くなった人々を
デキ ヨシカワ
オカイ ヤマシタ
彼らはサガダにやってきて 結婚し 住みつきました
頭がよくて 働き者でした
そして沢山の子供がいます
コーラス
まわりを見回せば
あちこちに 見えるでしょう
彼らの立てた建物が
彼らの祈りが
私たちを とても助けてくれました
だからやってきてくれたのですね
私たちは親戚同士なのですから
(続く)
はじめて訪れた東南アジアの国フィリピン、それにはじめて訪れた村サガダ、その村にどのような歴史が流れているのか知るはずもなかった。デキ(出来)、ヨシカワ(吉川)、オカイ(岡井)、ヤマシタ(山下)という日本人の名を聞いていると、そこがフィリピンの山奥であることを忘れてしまった。今でもなお交通の便の悪い地、山一つ奥に入るとタイムトンネルをくぐったかのように数百年前を思わせるような生活を営んでいる人々が住んでいる地。そのような土地に80余年前に私たちと同じ血をもった人々が、現地で妻をめとり、イゴロット族の一員としてその土地に骨を埋めていったとは想像もできなかった。私は彼らの歌を聞きながら、その中に歴史の神秘、ロマンのようなものを感じさせられた。
聖公会新聞 1985年4月25日より転載
フィリピン旅行記 <4>
ベンゲット道路 苦難な日本人移民 司祭 大郷 博
1898年(明治31年)、フィリピン支配をめぐりアメリカ・スペイン戦争がはじまった。同年12月10日、パリ講和条約に調印、アメリカはフィリピンの友愛同化宣言を行なった。1565年以来のスペイン支配は終わり、フィリピン領有権は新しい支配者アメリカの手に渡った。
フィリピンの首都マニラ、飛行機を降りたつと汗がふき出る。身体が慣れるまでは寝つかれない。特に雨季(4月~9月)のむし暑さはたまらない。新しい支配者はこの期間、清涼なる地での快適な生活を求め、マニラより北に約250キロ、標高1500mの高地バギオに新しい町をひらいた。
午前三時にマニラを発ったバスはどこまでもまっすぐに延びた道を真北に突っ走る。車窓からの風景はどこまでも限りなく続く肥沃な田園である。3時間ほどでバスは山裾につき当る。トキンピークである。平地に屏風を立てたような険しい山、バギオに向けて一気にかけ登る道がある。それが日本人労働者の血と汗でつくられた道、ベンゲット道路である。
「北ルソンには霜さえて降る清涼な高地ありて、時々烈しい暴風雨が襲うので人々はこの地域をさして、バギオ!バギオ!(スペイン語で暴風の意)とよんでいる」。1900年この地を夏の行政地としたアメリカは、麓のトキンピークとバギオ間の山間渓谷の約35kmの道路建設に着手した。火山帯泥土や急傾斜の地形などで作業は遅々として進まず、「素敵に安い」はずの道路が数十倍の費用をつぎ込むこととなり、またフィリピン・中国人労働者の手に負える相手ではなかった。
1903年、工事主任に着任したケノン少佐は北米の荒野に入植した日本人移民の勤勉さを知り、648名の日本人労働者が送り込まれ、道路建設が再開された。
「まったくよく死にましたよ。夕方頃寒気がすると言っていた奴が、夜中になると40度位の高熱にうなされ、翌朝は足が立たなくなる。それッと病院にかつぎ込めば、次の日は立派に仏になって帰ってきました。時には一日に五、六人も死にました。仕事着のまま土穴に投げ込んで、小石を目標に立ててやれば上等の方でした。」(フィリピン在留邦人商業発展史より)
このべンゲット道路建設に投入された日本人労働者は、1899年に制定された移民法に抵触したため文書による正式契約は一切行われず、日本側代理人稲葉卯三郎との間で口頭によって交わされた契約に基づくものであった。それ故、労働者は移民ではなく、一時的労働者であり、大多数はいわゆるタコ労働者であった。
劣悪な生活環境、赤痢、マラリヤ、コレラ、ダイナマイト事故などで、わずか15ヶ月の工事期間に五百余名の日本人労働者が死んでいった。1905年1月29日。ベンゲット道路は完成し、工事主任ケノン少佐の功績を記念して「ケノン道路」と改名されたのである。
サガダナイトの夜に歌われた四人の日本人の内、ヤマシタ、ヨシカワの二人はベンゲット道路の生き残りであった。
当時、日本人労働者の多くは工事終了後、未開の地ミンダナオ島に移り麻園を開墾した。マニラ麻の出現である。そして大工、石工であった山下、吉川はサガダにおけるアメリカ聖公会の教会建設を知りさらに山奥入り、そこに骨を埋めた。
漆黒の闇に赤々と燃える篝火に照らされながら歌われた歓迎の詩、その中に登場してきた四人の日本人の名を聞いて、私はそれを歴史のロマンと表現したが、彼らの歩みはそんな甘美なものではなかった。
それはフィリピンと日本の近代史を象徴するかのような過酷な歴史の呻きであった。
村を発つ数日前、一人の村人が私達を訪ねてきた。メレシオ・ヤマシタ、あの詩に出てくる山下徳太郎の長男であった。
戦争と共に、時の司令官山下奉文と同姓だった彼ら一族は、過酷な運命を背負うことになったのである。
聖公会新聞 1985年5月25日より転載
フィリピン旅行記 <5>
フィリピンからの友人達を迎えて 司祭 大郷 博
本年5月19日、私たちの念願がかなって、お世話になったフィリピンの人々を四人、日本へお迎えすることになった。「相互理解」を口にしながら、日本からの一方的訪問だけではないかという日本での批判を耳にしてきた。まさにその通り、しかし、参加費自己負担の学生達には彼らを日本に招待するだけの余力はなかった。「南北間に横たわる絶対的経済格差の上に胡座をかいたプログラム」、まさにその通り。10万円余もあれば手軽に訪問できる我々、しかしこの金額は山岳地帯の学校教師の一年分の給料に等しい。私が現地にいて一番辛い思いをするのは、私のサラリーをたずねられる時である。物価や生活経費の違いを別として単純に収入金額だけを計算すれば、私の1ヶ月の給料が彼らの三、四年分の収入に当たるのである。私たちの活動を批判する人々も日本人である限り、この南北間に横たわる絶対的経済格差の恩恵に浴しているのである。こんな経済格差、あっていいはずがない。しかし、超巨大な構造的問題に対して、一体我々に何ができるというのだろうか。いや、一つだけ云えることがある。民衆同志の連帯である。互いに互いを真に理解すること。それなくしては何もはじまらない。そのためには出かけられる側から相手を訪ねて行くことだと思う、細心のおもいと配慮をもって。
フィリピンに生きる山下一族
四人の訪問者の中に、サガダにある聖公会立学校セント・メリー高校の校長、ドロシー・Y・キリーさんの名前があった。彼女の訪問を私達一同心より喜んだ。
到着の日、空港に出迎える私達の気持ちは落着かなかった。あのフィリピンの山奥の村から四人の代表者が日本に来るなんて、夢を見ているようであった。不十分ながらもやっと相互通行を実現することができた。この機会実現のために尽力してくれたキャンプ参加者や関係者に感謝の気持ちで一杯だった。
しかし、四人の中にキリーさんの姿はなかった。土壇場に来て彼女のミドル・ネーム・Yが当局にチェックされ、パスポートの発給が遅れたとのことであった。
実はこのキリーさん、前回ご紹介したメレシオ・ヤマシタさんの娘、すなわちサガダ・ナイトの歌に出てきたベンゲット道路従事者の生き残り、山下徳太郎さんの孫なのである。
ヤマシタ一族の半世紀は辛苦に満ちたものであった。大工、石工として高い技術をもった初代山下さんは、村人から尊敬され大切にされた。ヤマシタ家族の平和な時代であった。しかし、戦争は彼ら家族の運命を一変してしまった。
1939年(昭和14年)、初代山下徳太郎さんが世を去った。長男メレシオ氏が家族を背負った時はすでに「日本人の血」をもつが故に苦難の道程を歩む運命となっていた。「スパイ」彼ら家族が背負う最初の苦難であった。このスパイ容疑は、日本軍、フィリピンゲリラ双方から彼らにむけられた。そして、三男はスパイ容疑で日本軍によって射殺された。「あいつは軽率だった。あのような時はもっと慎重に行動すべきだ。日本人もフィリピン人も、誰一人私達家族の味方はいなかった。自分で自分を守るしかない。弟はバカだった。軽率な行動は命取りとなる。それが戦争というものだよ」メレシオさんが「それが戦争というものだ」と云った時、その目には感傷的なものなど一切なく、厳しいまでに現実的な目であった。
フィリピン戦総司令官山下奉文と同姓であることが、彼らを一層苦境に追い込んだ。山岳地帯の狭い閉鎖社会、同姓は親戚関係にある。山下大将とヤマシタさんが親戚関係にあると思われても不思議なことはない。その結果、終戦と共にメレシオ・ヤマシタさんは一年近く、強制捕虜収容所を転々とすることになった。「モンテンルバの収容所に送られた時、山下大将を見ましたよ。身体の大きな人でした。でも、何故私が捕虜収容所に送られなければならないのですか。父の祖国は日本です。でも、私の祖国はフィリピンです。日本姓であるということだけで・・・。終戦間近、日系人の多くがゲリラによって殺されました。スパイ容疑でした。私達家族が生き残れたのは、日本語を話せなかったからです。父は家では一切日本語は話しませんでした。日本人の血をもった私があなたと一言の日本語も話せないのは寂しいですが、そのおかげで私達は生き延びることができたのです。」
戦争末期から戦後にかけて、日系人が殺害され多くの迫害を受けた事は事実である。そのため多くの日系人は日本姓を捨て、現地姓を名乗り、さらに深い山奥へと逃れ住んでいった。
「私の唯一の誇りは、ヤマシタ姓を捨てなかったことです。しかし、ヤマシタ姓であるが故に多くの困難にあいました。一番こまったことは子供達の学校の問題でした。学校に入れてもらえない。成績がよくても単位をもらえない。それで仕方なく、子供達だけは女房のバカヤン姓を名乗らせました。でも、私自身はどんなに困難なことに出会ってもヤマシタ姓は捨てませんでしたヨ。」そう話す彼の顔には、多くの苦難を幾度も乗り越えてきた、深い皺々が刻み込まれていた。真の男を感じさせる顔である。
未だ癒されぬ戦争の傷跡
ヤマシタ一族の苦難が今日まで、まだ尾を引き続けているのに驚いた。いや、私の現状認識の甘さを痛感させられたといった方が正しい。一行より3日遅れでやってきたキリーさんの説明はこうだった。「ミドル・ネームのYが、ヤマシタ姓であることが第一の問題。それに途中でバカヤン姓に変わっている事もつかれました。私達家族には、まだ戦争が終わっていないのですね。」よくパスポートが発給されましたねという私の質問に、「そこはフィリピン、袖の下で切り抜けました。」彼ら一行の渡航費を一時立替えたフィリピン聖公会の請求書の中に、キリーさんのパスポート取得に関する必要経費として「袖の下料」が明記されていた。私は、そこまでして彼女を日本に送ってくれたフィリピン聖公会に感謝している。何故なら、私達はこの五年間、「メレシオ・ヤマシタさんを日本へ」と運動してきた。日系人であるが故に背負わされた、彼の辛苦に満ちた生涯を知った者として、彼が夢にまでみる父の祖国日本に是非ご招待したいという私達の気持ちだった。しかし、ヤマシタ姓である彼には今日までパスポートが発給されることはなかった。「皆さんの好意に感謝します。しかし、私は日本訪問を断念致しました。」そんな電報を受け取った私達。彼の夢と私達の夢を、今回娘のキリーさんが実現したのであった。
他者と共に生きること
五回連載のフィリピン旅行記も最終となった。私はフィリピンと日本の近代史の一断面を、私が出会った人々や出来事を通して述べてきた。この連載を通して私が言いたかったことは、私達が出会う出来事や人々の背後に隠れたる様々な歴史があること、私達の思いや関心を誠実に集中すれば、それらの背後にある隠れたる世界が少しづつ明らかになってくる。この出来事や人々の背後にある隠れたるものを知ることが、人々や出来事を真に理解することであり、それが人間の優しさ、おもいやりであるということである。
私達がアジアの問題に関わる時、単に政治的、社会的問題としてさわぎたてるような関わり方ではなく、見えないものを見ていく姿勢、人々や出来事の背後にある隠れた世界を私達の誠実な関心を寄せることによって見ていくこと、それが今求められている教会人の使命であり、役割であるように思う。
見えないものを見ていこうとする時、今ある「生」がどれほど沢山の「死」や「悲しみ」の果にあるかを知ることができるのであり、私のいのちが私たちにこの豊かさをもたらすために先立って逝った人々との深い連なりの上に成り立っていることを知るのではないでしょうか。私達が自らのいのちの有機的連なりを知る時、私達は他者と共に生きることを学ぶのです。
長期間に亘り、拙文を読んで下さいましたこと、心より感謝いたします。 終
この新聞記事連載の時点(1984年~1985年)までは、メレシオ・ヤマシタさんの来日は絶望的だった。しかし翌86年、何がおこったのか彼の来日が実現した。彼の来日第一目的である父徳太郎さんの生家を、福岡県糸島郡志摩町久家に訪ねた。そこには遥かフィリピン北部山岳州のサガダという寒村で目にしたと同じ一葉の写真があった。私には不思議な光景だった。ただただ涙涙涙だった。その時のことは同行取材された当時の朝日新聞の記者、外村民彦氏の記事にゆずることとしたい。(以下、朝日新聞の記事)
朝日新聞(夕刊)1986年2月25日
こころ ヤマシタさん、まぶたの日本 ※朝日新聞社の承諾を得て転載
(本記事を朝日新聞社に無断で転載することは禁止されています。)
戦争前後、いばらの道 「父の国、美しく温かい」
メレシオ・ヤマシタさん。68歳。フィリピンの日系二世である。この22日までの約1ヶ月、日本に“里帰り”し、父祖の国を初めて見た。フィリピンで働いて二度と日本の土を踏まなかった父親の生まれ故郷を訪れ、墓参りし、親類と語らい、感無量の嵐であった。―あの山下奉文将軍と同姓のヤマシタさんが歩いてきた道は、苦難そのものだったようだ。
ヤマシタさんの父親は山下徳太郎さん。明治18年、福岡県糸島郡志摩町に生まれ、同36年フィリピンへ。当時移民した日本人による「ベンゲット道路」の建設に従事した。
道路建設へ父移民
ベンゲット道路は、フィリピンを領有したばかりのアメリカが、マニラ北方250キロの高原を避暑地にと、標高1,500メートルのバギオ地方に作った道路。工事担当の米少佐が日本人の優秀な技術と勤勉さを高く買って移民を誘致したという。この30余キロの道路工事は難渋をきわめ、千五百人の日本人労働者は明治38年の完成まで病魔とも闘って、犠牲者七百人にも及んだといわれる。
徳太郎さんは、道路完成後はバギオからさらに140キロ奥のサガダという山村に定住。大工や石工として教会建築にも携わった。現地イゴロット族の女性と結婚、四男五女の父親となったが、昭和13年、53歳で他界した。―メレシオさんはその長男である。大正6年(1917)の生まれ。
「私は、戦前からサガダの教会の病院で用務員などして働いていました。父に大工も習ったから建物の修理も。・・・戦争末期、山下将軍の司令部がバギオに移って、サガダ周辺の村々も戦場になり、抗日ゲリラは活発になった。私の家にはよく日本兵がお茶を飲みに来たりしてゲリラからは疑惑の目で見られました。日本軍の通訳を頼まれたが、ことわった。ヨシカワという人の息子は、ゲリラから、日本軍の駐屯所に火をつけるようにいわれ、火炎びんを投げたが失敗、日本兵に射殺された」
ゲリラ用の銃運ぶ
「私はゲリラから、日本軍のスパイでないのなら身のあかしを立てろと、近くの町からゲリラ用の銃を運ぶよういわれた。日本兵はいっぱいいるから見つかれば殺されるし、決行しなければゲリラは何するかわからず、必死の銃運びでした。私の妻子五人や妹の運命を考えて」
去る1月25日に来日したヤマシタさんは、東京・西池袋の止宿先、立教大チャプレン(牧師)大郷博さん(39)方で、ポツリポツリと語った。弟は通訳で日本軍に同行中にゲリラの犠牲になった、という。
「戦後、日本人名は非常にきらわれた。戦争の傷跡です。とくに山下将軍と同じヤマシタで私は困った。妹は大学で成績は一番だったのに、日本名ゆえに卒業は許されず、母方の姓に変えねばならなかった。私の八人の子どものうち五番目までは、妻の姓に変えました。私はヤマシタで通したが・・・・」
“日本人の血”の誇りがあったのだろうか。
ヤマシタさんは、戦後は運送業を始め、今はバス七台を持つバス会社の社長さんだ。
大きい立教大の力
そのヤマシタさんが今度来日できた陰には、立教大サガダ夏季キャンプの人たちの力が大きかった。
立教大のワークキャンプが始まった昭和54年の夏休み、二十数人の学生たちがサガダの山中に入った。
村民は「山下将軍が埋めた財宝を掘り起こしに来た」と疑いの目で見ていたが、学生たちの真剣な奉仕労働や地元民との交流で次第に打ちとけた。ヤマシタさんには終戦前後の強制収容所以来30余年ぶりに見る日本人だった。学生たちが日本に帰るという前夜、名乗り出て、引率者の大郷チャプレンらに身の上を語り「長崎に妹の息子がいるはずだ」とつけ加えた。日本人と結婚し終戦時に日本へ単身強制送還された妹さんが、夫の生家の長崎にたどり着いて出産した子どもだ。
このキャンプ参加者に山下恭弘という学生がいた。同姓のよしみで、懸命に思い出を聞き、帰国後すぐに長崎に飛んで、三菱重工長崎造船所につとめる小川一清さん(40)を見つけ出した。翌年のクリスマス、立教大の山下さんは、小川さんをサガダへ連れて行き、異国のおじとおいの初対面となった。
当時を回想してヤマシタさんはいう。「その二人が日本に帰ったあと、村人たちがやってきて、どうだ、宝もののあり場所がわかったか、と聞いた。で、私は言ってやったんだ。そうだ、金や銀よりももっといいものを見つけてくれたよ、おいっ子を連れてきてくれたんだ。これ以上の宝ものがあるか、って。」
大郷チャプレンを中心に「ヤマシタさんを日本に呼ぶ会」が出来たのはそのころ。渡航費用も集まったが、ヤマシタさんの身体の具合や出国許可が出なかったりで、今回やっと実現した。四女の看護婦グレール(32)を連れての来日だった。
ヤマシタさん父娘は長崎市深堀町の小川さん宅に泊まり、2月10、11日は、父親徳太郎さんの出生地、福岡県志摩町久家で先祖の墓参をし、山下徳雄さん(56)方で親類縁者八人と会食。「私の父が帰れなかったこの地を訪れて感激でいっぱいです。ぜひフィリピンにおいで下さい。」とあいさつした。
「父の国は美しかった。人々の心は温かだった。」と語って22日に離日したヤマシタさんの隠れた個人史の中に、戦争をはさんだ、日本とフィリピンをめぐるドラマを見る思いがした。(外村 民彦編集委員)
2006年メレシオ・ヤマシタさんは、その波乱に満ちた人生を終え、旅立っていった。89歳だった。
つづく